最近はアニメ映画でいとも簡単に泣きます、調たかしです。アニメの動物たちが歌いまくる「SING」を家で一人で観ていて、ネズミが歌う「MY WAY」(その昔、フランク・シナトラが歌った名曲)にあっさりと涙腺を討ち取られたときは、さすがに参ったと思いましたが…。

今朝は城南区保護司会の「社会を明るくする運動」に参加してきました。更生保護の活動に対する理解を深めるとともに、薬物乱用の防止を呼びかけるため、鳥飼校区でチラシやポケットティッシュをポスティングしました。今年はコロナの影響でなかなか活動の機会がなかったので、久しぶりのお顔ぶれとお目にかかることができ、とても嬉しく思いました。

 

 

 

 

 

 

午後からは目下大ヒット中の映画、「鬼滅の刃」を娘たちと鑑賞してきました。全国的には新型コロナの第3波が疑われる状況になる中、映画館も客席の間隔を取るなど様々の対応を迫られています。それもあって、現在のヒット映画は1日の上映回数がかなりの数になっているようで、劇場に足を運んでびっくりしました。

娘たちの影響で私もこの作品のコミックスを読んでおり、話の筋はわかっていたのですが、兄弟愛、友情、そして仲間への深い信頼と、時代が忘れかけているものにハッと気付かされるような気がして、終盤は幾つもの場面で滂沱(ぼうだ)として涙の流るるを禁じえず。予想通り、娘たちは横でケロッとしているわけですが。

 

 

 

 

 

 

この作品が大ヒットするにつれ、何やら大人社会では不穏な論争が巻き起こっているようです。作中では敵である鬼を倒すためには首を刎ねなければならない設定になっているのですが、これが子どもに悪影響を与えるのではないかといった意見が一部で根強くあるようです。

この話を聞いて思い出したのが、私自身が子どもの頃の「有害コミック論争」。当時大ヒットしていた「北斗の拳」や「ドラゴンボール」といった作品が過度に暴力的であるとの批判があがり、大人たちの間でかなり真剣な議論が交わされていました。

確かに北斗の拳に関して言えば、数えたらキリのないくらいの生身の人間が、主題歌にもあったように「指先一つ」で肉塊と化すわけですから、かなり過激な暴力描写だったと思います。フランシス・コッポラのゴッドファーザーシリーズや、タランティーノ作品も真っ青の、それはそれは鮮やかな暴力です。悪者のこめかみを両手の親指で挟んで貫き、指を抜いて3秒後に死に至らせる(北斗残悔拳)、顔面を手刀で叩き割る(岩山両斬波)などの必殺技について、「子どもが真似をしたら危ない」と多くの大人たちが心配をしていたわけですが、子ども心に「大袈裟だなあ」とは思いつつも、実際に教室の後ろでケンシロウの真似事をして遊んでいる男児はいましたので、それなりに理解できる議論でした。

しかしです。鬼滅の刃で主人公や仲間たちが斬るのは、人を殺戮して食らい、容姿もかなり人間離れした「鬼」の首です。この鬼が、人の言葉を話し、鬼になる以前はそれぞれ人間としての人生があったりもするので心情的には厄介な気もしますが、とにかく首斬りの対象は生身の人間ではありません。

ましてや、主人公らの武器である「日輪刀」を模倣して刀を作ったり、所持したりすることも、銃刀法の規制がある現在の我が国では極めて困難といえます。

かつての有害コミック論争は、198889年の連続幼女誘拐殺人事件をきっかけに大きな盛り上がりを見せたように記憶します。犯罪史上類を見ない凶悪事件の容疑者が、アニメや漫画作品のいわゆる「オタク」だったと報じられたことが、規制派の論調を後押ししました。そういえば、小学生の頃には13日の金曜日に決まってホラー映画がテレビで放映されていましたが、この事件をきっかけにテレビ局が自主規制したのではなったかと…。しかしながら、犯行の残虐性や動機と、容疑者が観たり読んだりした作品との因果関係は、結局立証されませんでした。

今まさに「鬼滅の刃論争」の時代に親の世代になっている私たちは、遠い記憶の糸を辿って、当時の論争を振り返ってみるのもいいのではないでしょうか。大人たちの議論はそれとして、漫画に描かれた暴力描写を、そのまま真に受ける子どもが果たしてどれだけいただろうかと。子どもはそんなにバカじゃなかったし、今は当時より随分賢くさえなっているように思います。

最近の流行に乗っかろうとか、論争に加わるつもりは毛頭ありませんが、世の中、色々と考えすぎかな?と思います。最後に映画の感想ですが、今作は何と言っても煉獄さんの生き様に拍手喝采ですね。いつの時代も男児たるもの、かくありたいものです。