以前から頭の中をぐるぐると回っていた考えを、一旦整理してみようと思い今日はパソコンの前に座りました。

外国人留学生や技能実習生が関係するさまざまな問題が報じられる昨今、長く「アジアにひらかれた都市」を標榜する福岡のまち、かつて「アジア主義」の理想を世に送り出した「玄洋社」発祥の地である福岡のまちは、どうあるべきなのかということについて、日頃感ずるところを述べるものです。

私は自宅と事務所、それに携帯端末とで、それぞれ別々の新聞を購読しています。少し前の朝日新聞のデジタル版の特集で、「失踪村」というテーマの特集記事を読みました。

この特集では、家族に少しでも良い暮らしをさせたいと、ベトナムの寒村から技能実習生として来日し、実習先で非人道的な労働環境に置かれ、耐え難い冷遇に苦しんだ末に逃げ出す者が後を絶たず、こうした人々が流れ着いて身を寄せ合う地域(=失踪村)の実態が記されていました。

かねてから私は、外国人の、とりわけアジア友邦からの留学生や実習生などの本邦における暮らしぶりについて関心をもってきました。というのも、福岡市は外国人留学生、中でも来日後の初等教育を受ける日本語学校の生徒が目立って多いからです。

だからこそ、なのかもしれませんが、留学生にせよ実習生にせよ、母国で悪質なブローカーから法外の借金を背負わされ、来日後にも二重三重に搾取され、逃げ出した挙句に不法滞在状態になる外国人の悲哀を、さまざまな形で見聞きしてきました。

こうした現状を見るにつけて、私はかねてから思っていたのです。「もしいまの世に、玄洋社の偉人たちがあったならば、いかに時代を嘆かれるであろうか」と。

玄洋社の掲げたアジア主義の理想は、先の大戦における軍部の拡張主義につながったとされ、それゆえに、GHQによる戦後統治下では右翼思想のレッテルを貼られて解散に追い込まれました。最後の社長は故・進藤一馬元福岡市長です。

しかし、史実に即した多くの書籍が明らかにしているように、玄洋社のアジア主義は万世一系の皇統を戴く我が国が柱となる点で大東亜共栄圏構想と重なりつつも、広く東亜の人々の連携と各民族の自助努力によって、欧米列強からの独立を勝ち取ることを志向していたもののはずです。

玄洋社が生んだ戦前日本の英傑、頭山満翁は、孫文、金玉均、ラス・ビハリ・ボースなどと深い交流を持ち、彼らが身を投じる中・韓・印の革命運動や独立運動を物心両面から強力に支援しました。

そこには戦中の軍首脳部のような「打算」はなく(大東亜共栄圏の実現を祖国の存亡と重ね、身命を賭した兵卒たちの御霊には衷心からの敬意を表するものではありますが)純粋な民族自決の理想だけがあったのではないかと思うのです。

我が郷土・福岡は、東亜の民族自決主義が萌芽した地であり、玄洋社こそがその苗床であった。私はそんな印象を持っています。

しかるに。アジア友邦の人々を搾取の対象として憚らぬような悪漢の跋扈する現代の世を、先人たちは草葉の陰からどのような気持ちでご覧になっておられることか。或いは嘆き、或いは怒り、泉下で友邦の人々に詫びておられるのではないか。

技能実習を例に取ると、実習生の母国側の送り出し機関の中の悪質なものは、我が国の受け入れ事業者の悪質なものに過剰な饗応接待をし、それにかかる経費をも実習生に借金として背負わせた上で、日本に送り出しています。

そして、私の知る限りではこうした不幸な経緯を辿って来日した寒村出身の若者ほど、来日後には殊更にひどい目に遭っています。このような状態を、捨て置いてよいはずがない。我が福岡のまちには、義憤に駆られるべき歴史的な背景があると思うのです。

故・桑原敬一元市長の時代から、福岡市はアジアにひらかれたまちづくりを掲げ続けてきました。この慧眼が、さまざまの人流、物流を活発にし、今日の本市の発展の大きな礎を築いたのだと思います。

これから福岡市が真にアジアに開かれたまちを目指すならば、このまちで暮らすアジア友邦の人々が不当に搾取されることなく、自由を謳歌し、市民の義務を果たし、それぞれ目標や希望を持って生活できるまちの姿を実現しなければならない。

冒頭に触れた「失踪村」のような、外国人を取り巻く悲しい現実があるのならば、我が福岡市は東亜の理想郷を目指す中で、悪事を正し、範を垂れる存在でありたい。

書いてみれば色々と飛躍があるとは思いますが、私は日頃、こんなことを考えています。